『露営の歌』(1938年) 撮影スナップ [左から 山路ふみ子、浦辺粂子、溝口健二、青島順一郎] 国立映画アーカイブ所蔵

世界映画史に燦然と輝く巨人・溝口健二(1898-1956)。没後70年の節目に当たるこの2026年、国立映画アーカイブは溝口監督をめぐる初の展覧会を開催し、その偉業を顕彰します。 東京に生まれた溝口は、青年期には画家を目指しましたが1920年に日活向島撮影所に入社、1923年に『愛に甦る日』で演出家の道を歩み始めます。関東大震災のために京都の撮影所に拠点を移したのちも多彩な作品を発表し、社会の犠牲となる女性たちを徹底したリアリズムで描く『浪華悲歌』や『祇園の姉妹』(ともに1936年)は溝口の一つの頂点を形作りました。また、芸道物の大作『残菊物語』(1939年)や空前の巨大セットを組んだ『元禄忠臣蔵』前後篇(1941-42年)は、溝口が日本映画を牽引する存在となったことを証しています。 大戦後は、復活の一作となった『夜の女たち』(1948年)に続き、日本の古典文学に材を採った傑作群『西鶴一代女』(1952年)、『雨月物語』(1953年)、『山椒大夫』(1954年)がヴェネチア国際映画祭で3年連続の受賞を果たします。長回しや移動撮影を多用した表現と完全主義の演出は、日本映画の高い芸術性を国際的に知らしめるとともに、フランスのヌーヴェルヴァーグの監督たちやテオ・アンゲロプロス、アンドレイ・タルコフスキーなど世界の映画人にインスピレーションを与えています。 この展覧会では、その生涯の業績や映画作りの手法、世界映画への貢献などを紹介するとともに、撮影の宮川一夫、美術の水谷浩、音楽の早坂文雄など「溝口組」の名スタッフが遺した資料を活用してその演出術を分析します。溝口の妥協なき濃密な映画芸術に迫るこの稀有な企画にご期待ください。

見どころ

1.世界の映画史に燦然と輝く巨匠・溝口健二、初となる本格的回顧展

小津安二郎や黒澤明と並んで世界の映画史にその名を轟かせる溝口ですが、小津や黒澤と異なりその芸術をテーマにした展覧会はこれまで催されませんでした。本展覧会は、日本映画を代表する巨匠・溝口健二を正面から取り上げる、はじめての本格的回顧展です。

2.各方面から一堂に会した貴重資料からひもとく溝口芸術

完全主義の製作姿勢を貫いた溝口の周りには、その苛烈な要求に応えることのできるすぐれた製作陣――依田義賢(脚本)、宮川一夫(撮影)、水谷浩(美術)、早坂文雄(音楽)、坂根田鶴子(助監督・記録)、田中絹代(俳優)など――が集結しました。各所で大切に保管されてきた「溝口組」メンバー旧蔵資料の数々を一挙公開し、溝口芸術の真髄に迫ります。

図版3.展覧会の理解を深める、充実したビジュアル展示

貴重な実物資料に加えて、会場内には、映像展示、デジタル資料展示、音楽展示などさまざまな形による展示を多数配置します。撮影現場で実際に使用された台本と完成映像を見比べることができるなど、展覧会をより深くお楽しみいただける内容となっています。

※本展のデジタル展示は当館の「アーカイブ中核拠点形成モデル事業」(運営:特定非営利活動法人映像産業振興機構[VIPO]) によるものです。

4.ゲストトークや上映企画など、会期中には関連イベントも開催

会期中には、日本を代表する溝口研究者によるゲストトークを3回にわたってお送りするほか、東京国際映画祭との共催上映企画「TIFF/NFAJクラシックス 没後70年 映画監督 溝口健二」(10月27日~11月1日)など、関連イベントも多数開催予定です。

展覧会の構成

第1章 日活向島時代

1920(大正9)年、溝口は日活向島撮影所に入所します。『京屋襟店』(1922年、田中栄三監督)などで助監督を務めたのち、1923年2月公開の『愛に甦る日』で監督デビューを飾ります。しかし、同年9月に発生した関東大震災によって撮影所は壊滅的な被害を受け、閉鎖を余儀なくされます。映画界入りから監督デビューを経て間もなく震災によって唐突に終わりを告げた溝口の日活向島撮影所時代について、当時の作品資料から迫ります。

第2章 日活京都時代

被災によって製作機能を京都に移した日活に従い、溝口も新天地での活動を始めます。『紙人形春の囁き』(1926年)がキネマ旬報ベスト・テン第7位に入賞したのを皮切りに映画賞にもしばしば恵まれ、『藤原義江のふるさと』(1930年)や『時の氏神』(1932年)では日本の映画監督としていち早くトーキーに挑むなど、野心に満ちた活躍を続けました。成長期の溝口の意欲作の数々を取り上げます。

第3章 第一の黄金期

1932(昭和7)年、溝口は日活を退社して新興キネマに移籍します。当時の人気俳優入江たか子を主演に据えた『満蒙建国の黎明』(1932年)や『瀧の白糸』(1933年)を成功させるなど、さらなる声望を高めます。1936年には、全篇の台詞に関西弁を用いる当時としては異色の演出を施した『浪華悲歌』『祇園の姉妹』を相次いで発表し、一つの絶頂期を築きます。仮借なきリアリズムの追求とその完成をみた、溝口映画第一の黄金期を辿ります。

『浪華悲歌』(1936年)ポスター 国立映画アーカイブ所蔵

第4章 松竹時代――戦中から戦後へ

1939(昭和14)年、溝口は京都の松竹に招かれて『残菊物語』を監督し、作品は文部大臣賞を受賞するなど高い評価を得ます。本作を皮切りに、溝口は古典芸能の世界に生きる人々を題材にした『浪花女』(1940年)、『藝道一代男』(1941年)を相次いで手がけたのち、江戸城の「松の廊下」を原寸大で再現するなど空前のスケールで製作された大作『元禄忠臣蔵』前後篇(1941-1942年)を送り出します。戦中・戦後にかけて松竹で生み出された作品の数々を、実資料によって読み解きます。

『残菊物語』(1939年)脚本 国立映画アーカイブ所蔵『元禄忠臣蔵 前篇』(1941年)スチル 国立映画アーカイブ所蔵

第5章 第二の黄金期――大映京都時代

『西鶴一代女』(1952年)ポスター 国立映画アーカイブ所蔵

1949(昭和24)年の『我が恋は燃えぬ』を最後に松竹から離れた溝口は新東宝、大映、東宝と各社で作品に取り組みますが、興行的にも批評的にも恵まれず苦杯を喫します。そのなかで『西鶴一代女』(1952年)が第13回ヴェネチア国際映画祭で国際賞を受賞し、一躍注目を浴びます。1953年からは大映の専属となった溝口は、『雨月物語』(1953年)と『山椒大夫』(1954年)で『西鶴一代女』以降3年続けてのヴェネチア国際映画祭入賞という前人未到の記録を樹立し、その名声を世界に轟かせました。精力的に活躍した溝口でしたが、1956(昭和31)年の『赤線地帯』発表後に体調を崩し、8月24日、58歳でその生涯を閉じました。溝口が晩年に放った世界映画史に残る名作の数々に迫ります。

第6章 国際的評価

『西鶴一代女』のヴェネチア国際映画祭入賞以降、溝口映画は日本映画の海外進出を最前線で支えるとともに、その高い芸術性によって日本のみならず世界の映画作家たちに広く影

FACT BOX ・ 要点整理

  • 出典:PR TIMES
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