オデュッセウスはトロイア戦争に勝利したが、帰還に十年を要した。これは海の遠さや道の険しさのためではなく、『オデッセイア』に込められた残酷な予言があるからだ。誰もが途中で死ねるが、帰還するのは自分ひとりだけ。このノーラン監督による映画は、英雄の帰郷冒険譚ではなく、それぞれの人が「待つこと」「孤独」「誰も救えないこと」とどう共存するかを描いた物語である。

私は帰国後の最後の休日に、誰のレビューも見ずに映画館へ行った。以下は私が整理した感想だ。ネタバレを避けたい方は、ここで読むのをやめてほしい。映画そのものは中立的であり、見る人によって捉え方は異なる。これはあくまで私の解釈である。

カプキューサの孤独:神が与えられない「家」

多くの人が疑問に思うだろう。シャーリーズ・セロン演じるカプキューサは、楽園のような島でオデュッセウスと暮らしているのに、なぜ彼は常に迷いと虚無を感じているのか。

このキャラクターを理解するには、彼女の神話的背景から考える必要がある。カプキューサはタイタン神アトラスの娘。父がオリンポス神々との戦いに敗れたため、彼女も世間から隔絶されたオギュギア島へ追放された。

神話では、彼女の住む島は夢のように美しい。森が茂り、泉が甘く、花が咲き乱れる。しかし、この島は実際には「監獄」である。神として追放され、他の神々は誰も訪れない。彼女は完全に孤独なのだ。

映画では、彼女はオデュッセウスに率直に語る。かつて彼を救い、島に留めた。そして、愛したと。多くの人は、なぜ女神がオデュッセウスを愛したのか理解できないかもしれない。しかし、彼女の背景を知れば、その感情は自然に思えるはずだ。

神話によれば、カプキューサはオリンポス神々によって島に幽閉されており、ギリシャの英雄たちが次々と流れ着く。彼女には罰がある。彼女は必ずその英雄たちに恋するが、彼らは必ず去っていく。愛する者を何度も失う運命が、彼女には課されているのだ。

永遠の命を持ち、静かな平穏の中で生きる女神にとって、オデュッセウスは「変化に満ちた」生命力の象徴だった。彼はこの荒れた島にやってきた最初の英雄であり、戦争の埃、傷跡、妻と子への深い思い、そして人間特有の苦悩を背負っていた。このような真実の人間の感情は、神の世界では決して味わえないものだ。

オデュッセウスは、当時のギリシャ人が最も魅力的だと考える知恵と不屈の精神を持っていた。たとえ人間であっても、神と対話でき、絶境を生き抜く。この英雄的な気質は、長く孤独に過ごしてきた女神にとって、致命的な魅力だった。

女神は彼に幸福を、永遠の命を、すべてを与えられた。だが、彼が最も求める「家」だけは与えられなかった。彼女にとって、この関係の失敗は、神として永遠に理解できない人間の決意——完璧な永遠よりも、不完全な帰属を選ぶ——を示している。

もともとの神話では、アテナがゼウスに願い出たことで、ゼウスがカプキューサにオデュッセウスを解放するよう命じる。しかし、ノーランの映画では、オデュッセウス自身が過去を思い出そうとしないが、無意識のうちに過去とつながる行動を繰り返す。たとえば、島に漂着した船の残骸を使って小舟を組み立てるなどだ。

ロータスの設定も興味深い。原作では、オデュッセウス一行が航路の前半で小さな島に立ち寄り、現地の住民から「ロータス」という果実を振る舞われる。この果実は強い魔力を持ち、食べた者は故郷や過去を完全に忘れ、帰還の目的さえ失ってしまう。ロータスを食べた船員たちは、魂を抜かれたように、ただ島にのんびりと残りたいと願うようになる。船に戻ること、長い旅路に向き合うことを拒むのだ。

これは、オデュッセウスがロータスを食べて島に残りたいと思う設定とも呼応している。カプキューサが彼に食べさせたり、逆に食べさせなかったりするのは、彼に記憶を思い出させたいが、同時に彼が去ってしまうことを恐れるという矛盾した心理の表れだ。

オデュッセウスがついに妻の記憶を取り戻し、なぜ7年も島にいたのかとカプキューサに怒りをぶつける。しかし、カプキューサはこう答える。「それはあなたの選択です」。

千黛雅がアテナ女神を演じる。(図/IMDBより)

ペネロペーの待つこと:誰もが「信じるな」と言うとき

映画『オデッセイア』の冒頭は、息子と妻、そして城に集う不審な客たちから始まる。誰もが疑問に思う。この国の王は本当に帰ってくるのか? 生きているのか?

王妃と王子が、帰らぬ王を待ち続ける。(図/IMDBより)

他の戦士たちはすでに帰還しているのに、なぜこの夫と父だけが戻らないのか?

アン・ハサウェイ演じるペネロペーの姿に、私は強く印象付けられた。

誰もが彼女に再婚を勧める。国に新しい王が必要だからだ。城で育った若者(トワイライトの男)までもが王位を狙い始める。

人々は彼女の美しさを、王位を、狙っている。しかし、この王妃は一体何を待っているのか?

彼女は毎日同じことを繰り返す。ただ織物を作るだけでなく、王の帰還を待っているのだ。

これはまるで、私たちの恋愛の姿そのものだ。誰もが「あの人とは合わない」「戻らない」と言う。それでも自分を信じ、相手を信じる。だからこそ、裏切られないという確信がある。

しかし、人間は脆い。なぜそこまで確信できるのか? あなたは、本人以上にその人を信じているかもしれない。

これはつまり、「愛への執着と一途さ」についての問いだ。あなたは本当に自分を理解しているのか? 自分が何を望んでいるのか? 他人の言うことに流されていないか?

息子が母に尋ねる。「一度も会ったことのない父は、本当に帰ってくるのか? 生きているのか? なぜ何もしないで、ただこの城を、父と築いた国を守っているのか?」

母の答えは、「父は帰ってくると信じているから」。そして、彼女は20年間、それを貫き通す。

息子は父の消息を求めて遠くへ旅立つが、ペネロペーは待つことを選ぶ。彼女は、自分の王が必ず帰ってくると信じているのだ。

最終的に彼女は決断する。誰かが自分が出した試練を乗り越えれば、再婚すると宣言する。この試練自体からも、彼女が愛する人が誰にも代えがたい存在だと信じていることがわかる。そして、その予言は現実となる。

誰もがあなたを閉じ込められない。閉じ込めるのは、自分自身だけだ。

アン・ハサウェイが王妃ペネロペーを演じる。(図/IMDBより)

人間の醜さ:勝利したとき、誰もがあなたを引きずり下ろそうとする

彼らが道を見失い、魔女島にたどり着くと、オデュッセウスは知恵を用いて豚に変えられていた船員たちを元に戻す。そして、魔女に帰還の道を尋ねる。魔女は、死者の魂に助けを求めなければならないと言う。

かつての戦友の亡霊たち——アガメムノン王と亡き部下シモン——に会う。

最も印象的だったのは、スパルタ王がオデュッセウスに語る言葉だ。「凱旋したが、王妃クライタイメストラに、入浴と油を塗られて歓待された後、娘を生け贄にした恨みから殺された」と。

この教訓により、亡霊はオデュッセウスに帰国時は控えめに行動するよう警告する。だからこそ、彼は後に乞食に変装して帰国するのだ。そして、その判断が正しかったことが証明される。これが彼の成功の鍵となる。

映画の中で、オデュッセウスは息子にこう言う。「下から見上げると、もっとはっきり見える」。

高位にいる者ほど、目が曇りやすい。特に利益に目がくらみやすい。底辺に立ってこそ、各階層と人間関係がどのように形成され、機能しているかが見えるのだ。

人間は比較を好み、劣等感を克服するために他人と競い合う。人間の醜さと嫉妬心ゆえに、誰もが他人の成功を心から喜ぶわけではない。

古人の知恵、中華文化の謙虚さには理由がある。「隠す」こと——「蔵」は、時に命を守り、成功を収めるために不可欠な手段なのだ。

立場を正しく選べば、自分の強みを発揮し、正しい行動ができる。誰もが自分の成功を喜んでくれると、甘く考えてはいけない。

王の警告は、妻だけではなく、「最も信頼する隣人であっても、警戒せよ」というメッセージだ。

マット・デイモンがオデュッセウスを演じる。(図/IMDBより)

英雄の悲しみ:誰も救いたいが、人間の愚かさには抗えない

映画で唯一、涙がこぼれたのは、亡霊がオデュッセウスに告げる場面だ。「帰還できるのは、お前ひとりだけだ」。しかし、オデュッセウスは「仲間たちを必ず連れて帰る」と答える。

この予言の起源は、サイクロプスの島にさかのぼる。

オデュッセウス一行は巨人ポリュペーモスに洞窟に閉じ込められ、彼は次々と船員を食べていく。

神話では、オデュッセウスが酒で巨人を酔わせ、焼けた杭で片目の巨人を刺し、羊の腹に隠れて仲間たちと共に脱出する。

映画もほぼ同じだが、「脱出後に名前を叫び、巨人を嘲る」という、元来の傲慢による挑発を、「巨人が死んだ仲間の兜を吐き出し、オデュッセウスが怒って反撃する」という因果に変更している。

しかし、どちらのバージョンでも結果は同じく残酷だ。この挑発により、ポリュペーモスは父ポセイドンに正確な呪いをかけることができる。「オデュッセウスは帰還するが、長きにわたり仲間を失い、屈辱を背負って、荒廃した故郷へ帰らねばならぬ」と。

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