最近の毒油問題において、民進党の報道官・呉崢はネット生中継の中で、黄揚明から「私は被害者ですよ、声を荒げてはいけないんですか?私が(毒油)を食べるなんて知りませんでしたよ!」と質問された際、「また私があなたに食べさせたわけじゃない、私に大声を出す必要があるんですか?今問題があるなら、それを処理すればいいじゃないですか!」と即座に応じた。その後、民進党は報道資料を出し、呉、呉崢の発言はメディア人からの感情的な非難に反応して思わず出たものであり、一般大衆を意図的に攻撃したわけではないと説明した。しかし、公の場での発言が感情的になり、表現が慎重さを欠いていたとして、呉崢自身が深く反省し、謝罪する意向であると発表した。
政党の報道官がメディア中継でのやり取りの中で感情的な発言をしてしまうことは、それ自体大きな問題ではない。感情的な言葉の背後には、衝突に対する人間の本音が表れている。同時に、これは執政党が毒油問題に直面したときの本音でもある——「どうして私が直接原因を作ったわけでもないのに、私が責任を取らなければならないのか?」という思い。これがまさにあの発言の背後にある真の論理であり、政権を握っている者の責任回避の姿勢であり、危機に直面したときの執政党全体の傲慢な態度の縮図でもある。
過去の食の安全問題を振り返ると、2011年のプラスチック化剤事件、2014年の低品質油事件、そして今回の中国連合油脂の基準超過事件まで、社会の不安、政府による徹底調査、制度の改正を経て、問題が過ぎ去るとまた日常に戻る。市場には依然として安全性に疑問のある製品が存在する可能性があるが、それらの発覚はほとんどが企業の自主通報や市民の通報に頼っている。政府は往々にして後手に回る存在だ。今回の毒油事件も、南僑が自主検査を行い通報したことで、政府がその後対応を始めたのである。
この事件により、国民は改めて認識した。たとえ制度や法律がどれほど厳しくても、通報のタイミングは依然として企業の手の中にある。私たちの食の安全体制は、これほどまでに脆いものなのだ。どのように法改正を行い穴を埋めるかは確かに議論に値するが、さらに重要なのは、政府がこの体制の脆弱性に対してどのような態度を取るかということだ。
事件発生直後、政府は回収数量、抜き打ち検査の結果、罰則の進捗などを公表し、さまざまな救済措置を講じていると強調した。一見、積極的な姿勢に見える。しかし、世論が「責任追及」に移ると、執政党が選んだのは中央の監督メカニズムの穴を認めるのではなく、責任を地方に押し付けることだった。中国連合油脂の所在地である台中市政府の監督不足を非難し、野党の政治献金記録を掘り起こして攻撃し、台北市長・蒋万安が食品安全会議に出席しなかったことを批判した。国民の健康に直結する危機を、選挙戦の攻防にすり替えたのである。
このような責任転嫁の論理は、まさに呉崢の「また私があなたに食べさせたわけじゃない」という発言の心理構造と一致している。本来負うべき責任を、被害者や野党に押し付けている。問題の本質は一回の失言ではなく、危機に直面したときの執政党の選択——政治動員で制度の修復を置き換え、野党攻撃で統治の不備を隠蔽することにある。責任の矢印が常に他人に向いている限り、改革の原動力は生まれず、社会的な問題は「騒ぎが過ぎ去った後」に静かに忘れ去られていく。
選挙の年にこれほど大規模な食の安全パニックが発生したことで、政権側が不満を感じるのも無理はないかもしれない。しかし、それはまったく道理がない。国民が食品安全に対する信頼を政府に委ねるのは、政府が「門番」と「保証人」の役割を果たすと信じているからだ。認証された食品に問題が起きたとき、国民が追究するのは当然政府であり、中央か地方かの細かい責任分担を問うことはしない。
与野党が互いに政治的な非難を浴びせ合うのは、危機の中で避けがたい常態かもしれない。しかし、「また私があなたに食べさせたわけじゃない」という言葉を口にした瞬間、それは正当な論戦の境界を越え、国民の信頼を軽視する傲慢さを露呈してしまった。傲慢はもともとの性格ではなく、長期間の政権運営と有効な監視の欠如によって育まれる心の余裕である。呉崢の失言は氷山の一角にすぎず、真に検証されるべきは、政権チーム全体が国民の信頼をどう見ているかだ。意識形態や政治操作だけで危機を乗り越えてきたのなら、政府に傲慢な余裕があるのも当然だろう。その傲慢を引き下ろさせるのは、内部の良心や自己反省ではなく、国民が行動を起こし、政権に「傲慢を返上しろ」と声を上げることだ。
*著者は経営学部の学生
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