古装陸劇では、皇帝が『伝膳』と声をかけると、宦官や宮女が次々と入ってきて、テーブルにはすぐに山珍海味が並ぶ。皇后や嬪妃が横に座り、一家そろって朝廷や後宮の大事を話しながら食事をする場面がよく描かれる。民間では、皇帝の一食が108品に達し、一品食べ終わるごとに下げられ、その派手さに驚かされるという話も広まっている。
しかし、清宮に残る『膳底檔』を調べると、実際の状況はドラマとは大きく異なる。清朝の皇帝は確かに一般人より凝った食事をしていたが、「毎日108品」という話には史料的根拠がなく、1日3食をとることや、皇帝と后妃が毎日決まって同じテーブルで食事をすることも、実際の宮廷生活とは異なっていた。
### 皇帝は毎日108品食べた?故宮研究員:史料に根拠なし
「皇帝の一食が108品」というのは、清宮の食文化で最も広く知られた話の一つだが、北京故宮博物院の研究員で、かつて宮廷歴史部副主任を務めた苑洪琪氏は、長年清宮の食事記録を研究しており、『北京青年報』の取材に対し、この話は明確に否定している。
苑氏は、清朝の皇帝は確かに贅沢な生活をしていたが、「毎食108品」というのは「根拠がない」と指摘する。清宮の制度では、皇帝の日常的な食事は48「品」が基準となっており、この数字には醤油や酢などの調味料も含まれるため、単純に48皿の大皿料理とは異なる。また、皇帝によって実際の食事内容は大きく異なり、節約で知られる道光帝は、ある時期には朝夕の膳が、料理と餑餑(おやつ)を合わせて5品にまで減っていたという。
では、「108品」という話はどこから来たのか。はっきりとした起源は特定しづらいが、後世に伝わる「満漢全席」は108品とされることが多く、また、晩清の慈禧太后の万寿節(誕生日)の食事にも108品の記録がある。こうした豪華な宴席のイメージが、皇帝の日常的な御膳と混同され、広まったと考えられる。しかし、故宮の研究者・苑洪琪氏は、清宮の史料には「毎食108品」という記録はないと強調している。
もう一つの「108品」の起源として、晩清の大規模な祭礼が挙げられる。中国文化研究院が『清宮瑣記』を引用して指摘しているように、慈禧太后の日常の朝夕の膳は約48品だったが、万寿節などの特別な祭礼では、108品まで拡大したという。つまり、「108品」は特別な祭礼の豪華な演出であり、清朝の皇帝が毎日2回の食事で固定でとる規格ではなかったのだ。
### 清朝の皇帝は1日2食が基本
現代人は朝・昼・夕の1日3食が当たり前だが、清朝の大部分の期間、皇帝の正式な食事は2回だけだった。
清代の典制や内務府に残る『御茶膳房』の記録によると、皇帝の主な食事は「早膳」と「晚膳」の2回。一般的に、早膳は午前7時から9時の間、晚膳は現代人には意外に早い午後1時から3時の間に終わっていた。この2回の正餐のほかに、状況に応じて点心や夜食が追加されることがあった。
### 実際の乾隆帝のメニュー公開!燕窩もあれば、白菜や豆腐、包子もある
では、皇帝は実際には何を食べていたのか?
清宮に残る『膳底檔』が、非常に直接的な答えを提供している。この記録は、皇帝がいつ、どこで、何を食べたかを詳細に記しており、調理担当者や使用された食器まで記録されることがあるため、現在の清代宮廷の食文化研究において、極めて重要な一次史料となっている。
例えば、乾隆三十年(1765年)正月十六日の記録では、乾隆帝は朝にまず冰糖燉燕窩(ビンタンズンイエンウォ)を飲み、その後、養心殿東暖閣で早膳をとった。メニューには、燕窩紅白鴨子南鮮熱鍋、酒燉肉燉豆腐、清蒸鴨子、猪肉鹿尾攢盤、竹節卷、小饅頭があり、さらに米飯、スープ、そして后妃が献上した料理も含まれていた。
午後の晚膳では、燕窩鴨子熱鍋、油煸白菜、肥雞豆腐片湯、水晶丸子、猪肘、燻豬肚、炒菠菜、包子、小饅頭、小菜、粳米飯などが登場した。夜に花火を見た後には、肉絲酸菠菜、鮮蝦米托、醋溜鴨腰などの夜食も追加で食べている。
この実際のメニューからわかるのは、皇帝の食卓には確かに燕窩や鹿尾といった当時希少な食材があった一方で、白菜、菠菜、豆腐、包子、饅頭といった、現代から見れば非常にありふれた食べ物も並んでいたということだ。
また、御膳のテーブルに並べられた料理が、すべて皇帝一人で食べきられていたわけではない。『膳底檔』にはよく「額食」という記載があり、一部の料理は皇帝から離れた位置に置かれていた。故宮博物院の資料でも、食事の後、皇帝はテーブルの一部の料理や餑餑、点心を后妃や皇子、大臣に下賜することができたとされている。
### 御膳は毎日山珍海味ではない、皇帝ごとに好みが大きく異なる
清宮の御膳でよく見落とされる点は、それが数百年にわたり変わらなかった「固定の皇室メニュー」ではないということだ。
故宮博物院宮廷歴史部の研究員・滕德永氏が清宮の食事記録を整理した結果、皇帝の民族的背景、成長環境、個人的な好みが、御膳房が用意する料理に直接影響を与えていたことが明らかになった。
例えば、康熙帝の時代には、多くの料理にごく一般的な食材が使われており、康熙帝は特に「醤(ジャン)」を好んでおり、宮中では大量の漬物が作られていた。黄瓜、茄子、冬瓜、生姜などが醤に使われていた。
乾隆帝の時代になると、御膳のスタイルは大きく変化し、燕窩や江南料理が皇帝のメニューに多く取り入れられるようになった。乾隆帝は特に江南料理を好んでおり、乾隆三十年の南巡の際には、蘇州の料理人・張東官が皇帝の食事を担当した。その後、江南料理は乾隆帝の御膳の重要な一部となった。故宮に残る資料によると、張東官が年老いて宮廷を去った後も、乾隆帝は江南から腕の良い蘇州料理人を新たに選んで宮中に招くよう命じている。
つまり、「清宮御膳」とは、満州の伝統的な食文化、北方の料理、江南などの地方の味が長年にわたり融合した結果であり、すべての皇帝に共通する固定のメニューは存在しなかったのだ。
### 陸劇が最も間違えるのは実は料理ではなく、「皇帝と嬪妃が一緒に食事する」こと
108品の話よりも、陸劇でより誤解を招きやすいのは、皇帝の食事の場面そのものだ。
多くの清宮ドラマでは、皇帝が主位に座り、皇后が隣に座り、寵愛される妃や皇子たちも一緒に食事をし、会話や争い、陰謀が繰り広げられるシーンがよく見られる。しかし、北京故宮博物院が清代の宮廷食事制度を紹介する際、明確に指摘しているのは、皇帝はほとんどの場合、一人で食事をしていたということだ。
宮廷の規則によれば、皇帝が特別に命じない限り、他の者は皇帝と同席して食事をすることはできなかった。皇太后、皇后、妃嬪たちは普段、それぞれ自分の宮殿で別々に食事をしていた。皇帝が他の皇族と食事を共にするのは、特定の儀礼的な場面に限られ、毎晩家族が自然に同じテーブルに集まるというわけではなかった。
さらに、皇帝の食事の場所も固定されていなかった。寝室でも、政務を処理する場所でも、皇帝が「伝膳」と命じれば、御膳房から料理が運ばれてきた。故宮の記録には、食事の前に宦官が方テーブルを運び、膳卓を組み立て、布を敷き、宮女たちが料理、ご飯、餑餑、スープを決まりに従って並べる様子が記されている。
したがって、実際の清宮の食事の光景は、ドラマほどににぎやかではなかったかもしれない。皇帝の前に並ぶ料理は、一般庶民よりはるかに豪華なものだったが、背後には膨大な御膳体制が支えていた。しかし、皇帝にとって「食事」という行為も、宮廷の身分、制度、礼儀によって厳しく制限されていたのである。
毎食108品というのは、大規模な宴席や祭礼の食事、満漢全席のイメージが混ざり合って生まれた、後世の皇室伝説にすぎない。それに対して、清宮に残された一枚一枚の『膳底檔』は、皇帝の食卓のより真実の一面を見せてくれる——燕窩や鹿尾がある一方で、白菜や豆腐、小饅頭もある。数十品の料理が並ぶ派手さはあるが、すべてを口にするわけではない。そして、その見かけは豪華な御膳卓の前に、ほとんどの時間、実際に座って食事をしているのは皇帝一人だけだったのだ。
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