群馬県太田市の「縁切寺満徳寺資料館」では、江戸時代に女性たちの救済を担った“縁切り寺”としての歴史や文化を紹介している。

資料館の代名詞ともなった「縁切・縁結厠(かわや)」は、満徳寺の歴史と、西日本の寺院に実在した同様の施設を掛け合わせた人気のスポットだ。参拝者はお札(200円)に縁切りと縁結びそれぞれの願い事を書き、専用の厠で流す。「切りたいのに切れない」「結びたいのに結べない」といった悩みを水に流すことで、気分が晴れるとされている。この度、縁切・縁結厠に焦点を当てたPR動画が公開された。

満徳寺が縁切り寺と呼ばれるのは、女性差別が厳しかった江戸時代に遡る。当時、離婚には夫からの「離縁状(三行半)」が必須だった。夫が離婚を認めない場合、女性が満徳寺に駆け込むと、寺は寺社奉行の助けを借りて夫に離縁状を強制的に書かせることができた。つまり、満徳寺は女性の望む離縁を国家権力によって実現できる場所だった。

歴史上、江戸幕府“公認”の縁切り寺は、満徳寺と鎌倉の東慶寺の二寺しかない。その背景には徳川家康の孫娘「千姫」の存在があった。千姫は7歳で豊臣秀頼に嫁いだが、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡すると徳川方へ戻った。その際、徳川発祥の地とされる現在の徳川町にあった満徳寺で、豊臣家との縁切りを行ったとされ、これが縁切り寺としての揺るぎない由緒となった。

さらに千姫は、豊臣秀頼と側室の間に生まれた娘を大坂夏の陣で助け、養女とした。この娘は後に東慶寺で尼となり天秀尼と名乗った。天秀尼が家康に「東慶寺を古来の通り縁切り寺であり続けさせてほしい」と願い出たとされる。こうして千姫との縁で結ばれた二寺が、公認の縁切り寺として後世に伝わることになった。

縁切寺満徳寺資料館は、近年「女性の自由」や「ジェンダーの歴史」を考える場としても注目されており、全国的にも珍しい“縁切寺”をテーマにした資料館として多くの来館者が訪れている。

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