1950年11月、蒋介石夫妻は士林官邸でノーランド夫妻をもてなしたが、当時その離婚に至るとは誰も予想していなかっただろう。(著者提供)
アメリカ国務長官ルビオ(Marco Rubio)の「放蒋出籠」(Unleash Chiang)という発言は、蒋介石がアメリカ保守派の心中に特別な地位を占めていることを思い出させるだけでなく、1950年代の『中国遊説団』(China Lobby)と『中国幫』(China Hands)の対立へと我々を引き戻す。
『イスラエル遊説団』(Israel Lobby)が誕生する以前、『中国遊説団』はアメリカ議会において最も強力な対外ロビー活動団体だった。
『中国遊説団』の起源は1940年代にさかのぼる。当時、アメリカは日本の脅威を警戒し始め、弁護士のコーコラン(Thomas G. Corcoran)が中心となって、アメリカが日本に宣戦布告する前から、宋子文とチェンナート(Claire L. Chennault)がアメリカ人パイロットを募って「飛行虎隊」(The Flying Tigers)として中国に派遣するのを支援した。この『民間』からの強大な影響力は、次第にアメリカ社会の各界や議会に浸透し、国内最大の親蒋勢力となった。
一方の『中国幫』とは、太平洋戦争参加後、中国に駐在していたアメリカ国務省の外交官たちの一部が、国民政府は戦後、あるいは日本降伏前にも共産党に敗れるだろうと見抜き、アメリカが蒋介石に一方的に賭けるのではなく、現実主義的な対共政策を取るべきだと主張したグループである。彼らは毛沢東が『チトー主義』(Titoism)の道を歩み、ソ連に対抗するアメリカの同盟者となることを期待し、親蒋派の『中国遊説団』と対立した。
1950年代に『放蒋出籠』を最も強く支持した『中国遊説団』の代表的人物は、『台湾の参議員』(Senator from Formosa)の異名を持つカリフォルニア州連邦上院議員ノーランド(William F. Knowland)だった。「フォルモサ」は1945年以前の西洋世界における台湾の英語表記であるため、直訳すれば「台湾からの参議員」とも言える。これは彼の蒋介石支持がいかに強固であったかを示している。
最近、筆者はノーランドの伝記を読む機会があり、1972年にかつて議会で『中国幫』と戦った盟友ニクソン(Richard M. Nixon)がアメリカ大統領として北京を訪問すると知ったノーランドが、「時が来た」(It's about time)と口にしたことに驚いた。これは彼の反共主義が、許歴農将軍のように晩年に変化したことを示している。なぜこのような変化が起きたのか?
1946年に上院議員に当選したばかりのノーランドが東南アジアを訪問し、台湾で李友邦将軍と会見したのは、まさに「台湾の参議員」だった。(著者提供)
なぜ『台湾の参議員』なのか?
では、この有名な異名は誰が付けたのか? 時代背景を1950年代の『マッカーシズム』(McCarthyism)が横行していた時代に戻さなければならない。当時のノーランドとニクソンはともに共和党右派の中の右派であり、反共主義の先鋒だった。上院ではノーランド、下院では周以徳(Walter H. Judd)が、それぞれ上下両院における台湾支持勢力の代表だった。
中国で宣教師として働いた経験を持つ周以徳とは異なり、ノーランドは第二次大戦以前に中国経験がなく、ヨーロッパ戦線で勤務していた。しかし、彼の出身地であり選挙区でもあるカリフォルニア州が太平洋に近いこと、および戦争末期におけるソ連のヨーロッパでの拡大が、彼の反共・反ソの立場を強化した。そのため、上院議員に当選後、中国問題に積極的に関与し、蒋介石への堅固な支持でアメリカ政界で名を馳せた。
ノーランドは、トルーマン(Henry S. Truman)政権がギリシャとトルコに援助を提供する一方で、世界人口の五分の一を占める中国を放置することに強い失望を覚えた。徐蚌会戦の敗北により蒋介石が下野し、代大統領が李宗仁となった状況下で、ノーランドは1949年11月、共産党に捕まるリスクを冒して重慶を訪れ、当時中国国民党総裁に過ぎなかった蒋介石と会談した。これは彼の心中では、中国の反共事業を率いる資格を持つのは蒋介石だけだと考えていたことを象徴している。
しかし、当時の蒋介石はまだ台湾に敗退しておらず、実際にノーランドに『台湾の参議員』という異名を与えたのは、『中国幫』の代表人物であり、アメリカ東アジア史研究の泰斗であるラティモア(Owen Lattimore)だった。ラティモアは1930年代末から中共に同情的であり、第二次大戦中に多くのアメリカ外交官や軍幹部に延安支持の考えを植え付けたため、ノーランドら『中国遊説団』からはソ連のスパイ容疑者と見なされていた。
ラティモアの忠誠心はアメリカ議会で何度も検証され、最終的に一時的にアメリカを離れ、英国に亡命するまで追い込まれた。その中で最も彼を弾圧した上院議員がノーランドだった。そのため、ラティモアは『台湾の参議員』と呼び、ノーランドが忠誠を誓うのはアメリカではなく蒋介石であると非難した。当時の『中国幫』の目には、『フォルモサ』も『台湾』も民主的独立国家ではなく、両蔣政権下の権威主義的体制と映っていたのだ。
1949年11月26日、中国大陸が共産党に落ちるさなか、ノーランドは重慶に飛んで中国国民党総裁の蒋介石と会談し、心中の中国正統は蒋介石にあり、李宗仁ではないことを表明した。(著者提供)
どちらが中国の正統かを巡る論争
興味深いのは、当時の『中国幫』も『中国遊説団』も、海峡を挟むどちらの中国が正統かを争っていたが、いずれも『台湾』を独立した主体として認識していなかったことだ。アメリカによる台湾の信託統治や、台湾住民の自決を主張したのは、ゲイリー・カー(George H. Kerr)ら少数の周縁的人物にすぎなかった。『中国遊説団』は台湾に存在する中華民国政府が中国唯一の正統であると一貫して主張し、『中国幫』はアメリカが中華人民共和国が中国大陸を支配する現実を認めるべきだと主張した。
ノーランドと周以徳の主張は、アメリカが台湾を防衛し、台澎金馬が中共の手に落ちるのを防ぐだけでなく、蒋介石が大陸に反攻し、「自由中国」(Free China)がソ連に支援された『赤色満州国』である『赤色中国』(Red China)を打ち破るべきだとするものだった。保守派共和党人だけでなく、彼らは民主党保守派の中にも同盟者を見つけた。それはマッカーシー(Joseph R. McCarthy)に匹敵するほど物議を醸したマクレーン(Patrick McCrann)だった。
マクレーンの最も物議を醸した点は、ソ連の拡大に反対するため、第二次大戦中は中立を保ちながらもヒトラー(Adolf Hitler)と良好な関係にあったフランコ(Francisco Franco)が率いるスペインを訪問したことにあった。彼ら三人とニクソンは強力に連携し、1950年のテイディングス委員会(Tydings Committee)および1951年のマクレーン委員会(Senate Internal Security Subcommittee)の調査で『中国幫』を攻撃した。
謝偉思(John S. Service)やデイビス(John Paton Davies, Jr.)らは、共産スパイである明確な証拠はなかったが、朝鮮戦争の勃発という背景もあって、国務省から追放された。アイゼンハワー(Dwight E. Eisenhower)が1952年に共和党代表として大統領に当選したのも、『中国遊説団』の支援が大きく貢献した。ノーランドはアイゼンハワーの選挙運動に尽力した功績により、上院共和党院内総務となった。
ノーランドらの声高な主張により、アイゼンハワー大統領は『米中共同防衛条約』(ROC-USA Mutual Defense Treaty)および『フォルモサ決議案』(Formosa Resolution)を成立させ、中華民国の自由地区が中共の手に落ちるのを防ぐ国家方針を確立した。アイゼンハワー自身は蒋介石による大陸反攻の可能性に疑念を抱いていたが、台湾を守ることは『中国遊説団』に対して示さなければならない最低限の姿勢だった。
ノーランドは1950年代に台湾を頻繁に訪問したことは間違いない。畢竟、彼はもともと台湾から来たのだから!(著者提供)
ホワイトハウスまであと一歩
しかし、ノーランドが最も勢いに乗っていた1957年、彼は1958年のカリフォルニア州知事選に立候補するため、上院議員の再選を断念するという、人生で取り返しのつかない過ちを犯した。1958年になると、金門砲戦が終結し、台湾海峡の情勢は安定していた。アメリカ世論は台湾が中共の支配下に落ちることを防ぐことを支持していたが、蒋介石が主張する『大陸反攻』はもはや現実味を失っていた。議会で横暴に振る舞った『中国遊説団』に対しても、相当程度の倦怠感が生まれていた。
FACT BOX ・ 要点整理
- 出典:PR Times
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