重慶の黄浦軍官学校を卒業した一人の将校が、誰よりも台湾を愛していた。彼が「重い局面を軽やかに」乗り越えた台湾海峡ミサイル危機の対応こそ、その最たる証しだった。 前参謀総長の羅本立一級上将は、軍人としての生涯を全うし、半生を戦乱の中で過ごした。その性格は落ち着きがあり、清廉を貫き、訓練は厳しいが部下を慈しむ姿勢から、自衛隊史上でも極めて高い評価を受けた将軍である。とりわけ、権力にしがみつかず、時流に逆らって退くその風骨は、多くの人々から尊敬された。 海軍のとある総長が部長職を巡って陳大統領に相手を誣告する事態に至ったのに対し、羅将軍との官徳の格差は「高下が明らか」であった。 羅将軍は安徽省合肥出身で、陸軍官校22期を重慶で卒業。その頃、八年間にわたる血の抗戦が終結した直後だったが、すぐに国共内戦に投入され、基層幹部として中国全土を転戦し、戦火の中で鍛えられた。 政府とともに台湾に移った後は、戦争学院などでの進学教育を修め、実践的な戦術思考と卓越した指導力により、官校の学生指揮部指揮官、師団長、軍団長、陸軍第六軍団司令官、陸軍副総司令、三軍大学校長、連合勤務総司令官などの要職を歴任した。 (注:22期には学生指揮部指揮官を務めた者が二人おり、もう一人は斉其森で、後に高雄市工務局局長を務めた。また51期にも二人の卒業生が前後して同職に就いた。劉礼信と全子瑞である。このような事例は極めて稀である)。 1995年、羅将軍は退役を一か月後に控え、シンガポールを訪問中だった。ある日、突然大統領府から緊急連絡があり、直ちに帰国して参謀総長に就任し、一級上将に昇進するよう命じられた。この知らせが伝わると、国防部内は騒然となり、各軍の高級将校たちは驚きを隠せなかった。 陸軍総司令の経験がないまま参謀総長に任命されたこと、そしてすでに引退準備を終えていたことによるものだ。当時はまだ軍政と軍令が二元化されていたため、参謀総長は実質的な軍事指揮権を握っていた。 【足は下へ、目は下へ、心は下へ、金は下へ】―羅参謀総長の治軍の格言。 羅将軍が就任して間もなく、海峡两岸で世界を驚かすミサイル危機が発生した。特に1996年の第三次台湾海峡危機では、中国人民解放軍の戦闘機が海峡の中線に接近し、基隆と高雄の外港をミサイルの落下区域に指定。ミサイルが台湾海峡を越えて発射された。台湾海峡は大波に見舞われ、国民の不安指数は過去最高に達した。 一触即発の緊張の中、羅将軍は驚異的な冷静さと決断力を発揮した。外島の兵士たちは銃を離さず、遺書を書き、遺体袋を配布され、毎日戦闘配置の訓練を繰り返した。戦争は目前に迫り、現場部隊の喫煙率は急上昇した。 台湾の株式市場は崩壊寸前となり、富裕層は次々と国外へ移住し、台北の不動産価格は底値を記録した。 そのような中、羅参謀総長は星を背に、風雨に打たれながらも、金門、馬祖、東引、烏坵などの外島最前線を16回も視察。これは歴代参謀総長の中で最多の記録である。当時、基隆港には常に3隻の「陽」字号駆逐艦が待機しており、前線に異常があれば、彼は直ちに現地へ向かっていた。多くの将校が不思議がったのは、「なぜ羅参謀総長は船酔いしないのか?」ということだった。 緊張が張り詰めた陣地で、185cmの長身が「鶴のように群れを抜けて」部隊の前に立ち、震える兵士の肩を軽く叩き、濃い郷音で「心配するな、総長がそばにいる」と語った。その落ち着いた態度と明るい笑い声は、兵士たちの不安を大きく和らげた。 運籌帷幄、指揮若定。 特に語り継がれているのは、1996年3月中旬、大統領選挙を目前に控えた出来事である。当時、中国人民解放軍のすべての沿岸ミサイル基地の射撃管制レーダーが一斉に起動し、羅将軍が乗る専用艦を直ちに照準した。幕僚は安全を考慮して行程の中止を提案したが、羅将軍は断固として拒否。「前線の兵士たちが私の到来を心待ちにしている。彼らの士気を挫いてはならない。信頼を損なってはならない」と述べた。 また、「敵が攻撃を敢行すれば、世界はその武力恫喝の本質を明確に見るだろう」とも語った。結局、専用艦は予定通り安全に東引・馬祖に停泊し、日の出とともに指揮所へと早足で向かった。 敵を広く想定し、防衛は厳しく。 戦略的配置においても、羅本立将軍は卓越した防衛思考と反撃の決意を示した。当時、国軍には敵の発射源を抑止する武器が不足していたが、彼は中山科学研究院に対し、4発の「天弓二型」ミサイルを緊急改造し、地対地戦術ミサイル(天弓2S)として外島に前進配備するよう命じた。これは、敵が本島にミサイルを発射した場合の報復手段としての措置だった。 また、工蜂六型多連装ロケットと戦車部隊を金門と大胆島に極秘裏に移動させ、重要目標を照準した。 基層部隊の誤射を防ぐため、羅参謀総長は「第一発の発射権」を自ら握ることを命じた。 さらに、海軍の潜水艦に魚雷を満載させ、敵の両用船団が通る海域に1か月間にわたり極秘潜航させた。また、米国に担当者を派遣し対応策を説明、米国の協力と約束を得ることに成功。これにより、解放軍の冒進を抑止し、台湾海峡の情勢を安定させた。ミサイル危機はこうして終息した。 「人ありて官を辞して故里に帰り、人ありて夜を越えて科挙を急ぐ」。 1998年の暮春、羅参謀総長はある親睦会の席で、副総長や幕僚たちに退任の意向を伝えた。大統領の慰留を断り、戦略顧問の職も辞退。これにより、定年退官の唐飛上将が一級上将に昇進する道が開かれた。 皆が知る通り、李登輝大統領は羅参謀総長を非常に敬重していた。その冷静な指揮だけでなく、権限の境界を常に守る姿勢も評価され、「青天白日勲章」を授与。これは軍人にとって最高の栄誉である。 「将軍の務めとは、静かにして幽深に、正しくして治むるなり」。 晩年の羅将軍は極めて質素な生活を送り、軍務に関わる一切のことに口を出さなかった。2005年、故郷・安徽省合肥への帰省と祖先祭祀のため、彼は自ら一級上将の終身職を辞任。これにより帰省が可能となり、史上初の「自発的に退役した一級上将」となった。 その後、無事に故郷で祖先祭祀を終え、その間、中国人民解放軍や共産党当局との接触を一切避け、いかなる接待も断った。台北に戻ってからは、静かな生活を続け、メディアに一切登場することはなかった。 2018年12月15日、羅本立参謀総長は台北の三軍総病院で死去。享年91歳。 羅将軍の逝去は、黄浦軍校出身の老将たちの時代の終焉を象徴している。彼は煙草をよく吸い、酒量に強く、酒の席での振る舞いも優れており、部下への報奨も厚かった。基層幹部をねぎらう際には、大杯で酒を酌み交わし、肉を豪快に食べ、心の声を真剣に聞く姿勢が、全軍の将校たちから心からの尊敬を集めた。 彼の生涯は、まさしく王陽明の「朝は戦に赴き、暮れには道を講ず」のようで、郭子儀のように「功は天下を覆いながらも主君に疑われず、位は極まれども人々に妬まれず」の知恵を持っていた。 国の危機的状況に際しては挺身し、功成り名を遂げた後は、ただちに身を引いて孫たちと和やかに過ごす。彼は行動によって、将軍とはいかなるものであるかを示した。黄浦軍人の永遠の典範である。 *著者は元陸軍官校名将研究講師、陸軍官校校友
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