台湾映画を見ていると、どこか懐かしいような、でもどこか見覚えのある光景がよく登場します。登場人物が家を出て、路地にはバイクがぎっしり。カメラが上に上がると、古いアパートの窓には鉄窓がはめられ、ベランダは外に延び、屋上にはさらに鉄板でできた小屋が乗っています。電線、看板、エアコンの室外機、物干し、水タンクがすべて同じ画面に詰め込まれています。こうした光景は、映画ではまるで美術部門が意図的に作り出した「台湾らしさ」のように見えますが、実は戦後の住宅と都市の発展史を振り返ると、これらは現実の都市に実際に存在していたものであり、何十年にもわたって積み重ねられてきたものだとわかります。
特に1970年代末から1980年代にかけて、実際の街並みや人々の日常が映像表現の重要なテーマとなっていきました。カメラが実際に街やアパート、住宅地に入っていくことで、住民たちが長年かけて作り上げた鉄窓、雨よけ、屋上空間、さまざまな住宅改造が、そのまま映画の中に取り込まれました。数十年後に振り返ると、古いアパート、狭い路地、鉄窓、屋上増築は、意図して再現しようとしても難しい、台湾独特の都市風景となっています。
今、台北の旧市街を歩くと、エレベーターのない4~5階建てのアパートはもはや「古い台北」の象徴のように感じられます。しかし半世紀以上前には、こうした住宅は「古い」ものではなく、むしろ当時の人々が思い描いていた「現代的な都市生活」の象徴でした。国立台湾大学の建築・城乡研究所の論文『アパートの誕生』によると、台北は1950~60年代から急速に「アパート化」が進み、アパートが都市の主要な住宅景観となっていきました。台北市立美術館が掲載した住宅研究でも、1950年代に「アパート」が都市の舞台に登場し、1965年には斯文里に新しい5階建ての平民住宅が登場し、周囲の伝統的な平屋と鮮明な対比をなしていたとあります。つまり、今では老朽化した市容と見なされる5階建てアパートも、当時は新しい都市住宅の形態を象徴していたのです。
しかし、台湾の街並みを特徴づけるのは、建物が完成した後、建築家の設計図通りにずっと残ったわけではありません。住民は実際の生活の必要に応じて空間を調整し、ベランダの外付け、鉄窓の設置、雨よけの追加、屋上空間の利用など、さまざまな改造を行いました。これにより、もともと統一されていた外観が徐々に変化していきました。同じ一棟のアパートでも、異なる住民、異なる時代を経て、窓やベランダ、屋上がそれぞれ異なる姿に変わっていきました。そのため、今私たちが見ている台湾の古いアパートは、ある意味「一度で完成した」ものではなく、数十年にわたる生活の中で、使い続けられ、増築され、改造されてきた結果なのです。
特に目立つのが、屋上増築です。高層ビルから台北の古い住宅地を見下ろすと、4~5階建てのアパートの上に、鉄板やレンガ、あるいは完全な部屋が追加されているのをよく見かけます。これらは一見ルールがないように見えますが、実は戦後の台北における人口の急増と、長期間にわたる住宅需要と密接に関係しています。公視の『事出有影』が住宅史の資料を整理したところ、戦後に大量の人口が台湾に入り、その後も都市と農村の間の移動が台北に集中したことで、台北市の人口は戦後約27万人から急速に増加し、1963年には100万人を突破しました。1964年の調査では、当時の台北の約3分の1の人口が違法建築に住んでいたとされています。住宅の供給が人口増加に追いつかず、都市は常に居住可能な空間を増やす方法を模索していました。
1960年代末、住宅不足と当時の建築条件に対応するため、3~4階建てでエレベーターのない「階段アパート」が政策的に推奨され、民間でも4~5階建てのアパートが大量に建設されました。1980年代には、こうした住宅が多くの平屋を置き換えて、台北における重要な居住形態となりました。都市人口と居住需要がさらに増加する中で、既存の建物の屋上も次第に利用可能な空間として注目されるようになりました。これが、後に台北の古いアパートの上に屋上増築が大量に現れる都市的背景です。
ただし、屋上増築の法的扱いは時代によって異なります。台北市現行の『違章建築処理規則』では、形成時期によって分類されています。1995年1月1日以降に新しくできたものは「新違建」と定義され、1964年1月1日から1994年12月31日までに存在していたものは「既存違建」として別途分類されています。制度自体からも、この問題が都市に数十年にわたって積み重なってきたことがわかります。そのため、映画のシーンでアパートの上に突然鉄板小屋が現れるのは、見た目は乱雑かもしれませんが、実は数十年前の台北の人口急増と住宅不足が残した痕跡である可能性があります。
もう一つ、台湾の古い街並みに頻繁に登場するのが「鉄窓」です。今、一棟の住宅が鉄の格子で覆われているのを見ると、「昔の治安はそんなに悪かったのか?」と思う人も多いでしょう。しかし、台湾の鉄の鉄窓の歴史は想像以上に複雑です。国立伝統芸術センターの『伝藝Online』が鉄窓花の歴史をまとめたところ、台湾で鉄窓が使われ始めたのは日治時代までさかのぼりますが、当時は主に政府機関などの建物に使われ、一般の民家には普及していませんでした。第二次世界大戦後、経済が徐々に回復し、住宅形態が伝統的な合院からアパートや洋館に移行する中で、民間で鉄製の窓や手すりが大量に作られるようになりました。その重要な機能の一つが「防犯」でした。
鉄製品の技術が発展するにつれ、鉄窓は単なる防護機能だけではなくなりました。職人は蝶、寿桃、花瓶、菊、幾何学模様、さらには富士山まで、さまざまなデザインを鉄窓に施すようになりました。もともと安全機能を持っていた住宅の鉄製部品は、次第に住民が審美眼を示し、職人の技術を誇示する場ともなりました。そのため、今映画で見かける古いアパートの窓に施された複雑な鉄の花模様は、住宅の安全需要、戦後の建築発展、民間工芸の結晶である可能性があります。そして、当時実際にそこに住んでいた人々にとっては、これらの鉄窓は今私たちが感じるような「レトロ感」ではなかったかもしれません。それは、毎日窓を開け、洗濯物を干し、街の生活を見守る、日常の一部にすぎなかったのです。
1970年代末から1980年代にかけて、ますます多くの台湾映画が実際に街や住宅地に入って撮影するようになりました。初期の台湾映画では、制作の都合上、セット撮影やスタジオ撮影が多かったですが、陳坤厚や侯孝賢といった映像作家が活躍するようになると、実際に街中や田舎、生活の現場に入って撮影する手法が重要になってきました。国家電影及視聽文化センターが関連作品を整理した際、後に「台湾新映画」として知られるスタイルの特徴である「実景撮影」と「身近な日常」が、この時期に形作られていったと指摘しています。
楊德昌は、台北そのものを映画の一部にしました。1986年の『恐怖份子』の冒頭は、台北の路地を走る警官と犯人の追跡劇から始まります。少女・淑安が建物から逃げ出し、路地に隠れる場面では、台北の住宅と街並みが物語の一部として登場します。映画の中のアパートの空間も重要な役割を果たしており、国家影視聽センターの制作資料によると、楊德昌は当時、民生社區のアパートを借りてリハーサルを行っていたそうです。
国家影視聽センターはその後、楊德昌の映画をもとに台北の都市景観を歩くツアーを企画しました。1970~80年代の迪化街、松山、民生社區から、1990年代以降の大安区や東区まで、彼の作品が記録しているのは登場人物だけではなく、台北の都市変化の記録でもあるからです。『青梅竹馬』に登場する新しいアパートやオフィスビル、台北の街並み。『恐怖份子』に登場するアパート、裏路地、現代建築。そして『一一』に繰り返し登場する住宅、オフィス、ガラス張りの建物、道路。これらはすべて、物語の背景ではなく、台北そのものが物語の一部となっています。『一一』と蔡明亮の『你那邊幾點?』は、研究者によって台北の現代都市空間の文脈の中で分析され、建築、道路、人々の生活の関係が考察されています。
『一一』に繰り返し登場する住宅、オフィス、ガラス張りの建物、道路。(図/微博より)
台湾映画は都市を意図的に「汚く」撮っているわけではなく、リアルな生活の痕跡を画面に残しているのです。こうして、路地、鉄窓、古いアパート、屋上増築が繰り返し映画に登場するのは、単に「台湾らしさ」を強調するためではなく、それらが実際に都市に存在していたからです。監督たちは選定、照明、構図によって都市を再構成しますが、実際の街並みにはすでに数十年にわたる生活の痕跡が積み重なっています。
1950~60年代に大量に建設されたアパート。その後住民が追加した鉄窓、雨よけ、屋上空間。路地に停められたバイク。壁から突き出たエアコン。ベランダに干された洗濯物。異なる時代の建築物が入り混じる様子。これらはもともと、普通の生活が長年積み重ねられた結果にすぎません。映画がカメラを現実の都市に向けたとき、これらの要素も自然と画面に入ってきたのです。
さらに興味深いのは、建築は老朽化するが、映画はその瞬間を永遠に残すということです。1980年代の観客が『恐怖份子』で見た台北の住宅と街並みは、当時としてはごく普通の都市環境でした。しかし数十年後に見ると、それはすでに都市の映像アーカイブとなっています。同じ窓、路地、アパート、街角、屋上。それらが記録しているのは登場人物だけではなく、台湾の人々が異なる時代にどのように暮らしていたかという記録でもあるのです。
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- 出典:PR Times
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